いのちのつながりを学ぶ子どもたち
〜修学旅行/岩手県和賀郡沢内村を訪ねて〜
成田喜一郎
1 事の始まり
わたくしたちの中学校の、わたくしたちの学年の子どもたちが、修学旅行で岩手県和賀郡沢内村を訪ねることになったのは、1987年10月25日(日)付けの『朝日新聞』日曜版の小さな記事がきっかけでした。
『村長ありき』岩手県和賀郡沢内村。かつては豪雪、多病、多死の三重苦に悩む貧しい村が、明るく、健康で豊かな村に生まれ変わった。村長の指導で始まった村ぐるみの保健活動こそが、行政・病院・村民一体の力を引き出したのである。小さな村の偉大なる村長の伝記だ。
この記事を読んだわたくしは、早速、及川和男さんの『村長ありき 沢内村深沢晟雄の生涯』(新潮社文庫、1987年九月刊)を買い求めました。そして、読み終えたあと、わたくしを襲った感動は、誰彼と分かち合わずにはいられないほどのものでした。わたくしの周りにいる人たちに紹介してまわったところ、なかでももっとも強い関心を示してくださったのは、本校の養護教諭・鈴木美智子さん(現・九州女子短大教授)と学年主任の若林克寿さん(現・本校副校長)でした。
その後、わたくしは、社会科教育の実践的研究、とりわけ、当時力を注いでいた「総合的地域学習」の研究を進める中で、しばしば偶然に「沢内村」に出会うという奇妙な体験をしてゆきます。
例えば、新聞記事で「深沢晟雄村長」が劇化されたことや「雪国文化研究所」が完成したことを目にしたり、沢内村のことを取り上げた鈴木文熹さんの論文「『地域産業おこし』政策をめぐる対抗関係」(加茂利男編『地域づくり運動動 新時代』自治体研究社、1984年)に出会ったりしたのです。そこで、わたくしは、沢内村に関する文献や情報を集めはじめることにしました。
そして、一年半後の1989年、わたくしは、中学一年の学級担任会で、二年後に実施される東北修学旅行のコースに「沢内村」を入れてはどうかと提案してみました。学年主任の若林克寿さんはもちろん、石川直美さん、上木多加志さん、堀内順治さんの積極的な賛同が得られ、沢内村への道を具体的にあゆみはじめることになったのです。
2 旅のあらまし
わたくしたちは、沢内村修学旅行のねらい=ねがいをふたつ定めました。
@
沢内村の地理・歴史、並びに村政と保健活動への人々の努力に学び、地方自治の在り方を考ええよう。
A
沢内村の中学生と交流集会を持ち、相互の学習文化交流によって、異なる地域に生きる中学生同士の理解を深め、友情を育もう。
これらの目的は、二回にわたる実地踏査をへて固まってゆきました。
1989年5月、学年主任の若林克寿さんとわたくしは、第一回沢内村実地踏査を行い、沢内村役場の村長太田祖電さん、教育長広田浄賢さん、住民福祉課の米沢一男さん、沢内村母子健康管理センター・健康管理課の深沢久子さん・高橋和子さん、沢内村立沢内中学校の校長深沢貞夫さんなどを訪問し、太田祖電さんの講話と沢内中学校の子どもたちとの交流会が持てることになりました。
また、修学旅行の直前の1990年3月、同僚の上木多加志さんとわたくしは、二回目の実地踏査にでかけ、沢内中学校の校長深沢貞夫さんと「沢内中と本校との交流会」の具体的な内容をつめたり、村長の太田祖電さんが住職をおつとめになる碧祥寺の博物館と村長宅におじゃまし、お孫さんふたり(当時、沢内中学校一年生・三年生)にお会いしたり、さらに、再び教育委員会を訪問して教育長の広田浄賢さんや指導主事の千葉仁一さん、母子健康管理センターの深沢久子さんにお会いし、資料や情報を頂戴したりしました。
そして、沢内村修学旅行は、1990年5月、以下のような内容で実施されてゆきます。
@
沢内村村長太田祖電さん(当時)と二十一世紀の沢内をつくる会の会長・照井富太さんのお話を聞く。
A
沢内中学校との交流集会を持つ。
ア、地域と学校紹介の自作スライド音響構成の上演による交流
イ、班別の話し合いによる交流
ウ、両校の合唱による交流
B
沢内村碧祥寺博物館の見学を行う。
これらに向けて、社会科の授業の中で沢内村の地理と歴史を学習したり、子どもたちの修学旅行実行委員会や、鈴木美智子さんが助言・指導される生徒会の保健委員会が中心となって「沢内村の地理」「沢内村のゴミ問題」「深沢村長と保健行政について」など数本の沢内村研究報告の発表を行いました。また、各学級で交流会のときにどんな話をどのように進めるかなどの話し合いも行いました。さらに、独立企画が制作した映画『自分たちで生命を守った村』の鑑賞などイメージをふくらませる事前学習も行いました。
3 自然といのちと人間をテーマに
沢内村への修学旅行の提案がなされたのは、1989年、子どもたちが中学一年生の三学期のことでした。しかし、この提案に先立って学年では、教科と学年が連携した相互交流学習を実践してきました。テーマは「自然」でした。理科の堀内順治さんが子どもたちに課した夏休みの課題レポート「『自然』について」をもとにして、1998年の秋に学年スピーチ大会「『自然』について考える」を実施しました。
1989年、子どもたちが中学二年になると、それを受けて学年パネルディスカッション「サンゴを汚したK.Y.ってだれだ〜新聞記事捏造事件を考える〜」を実施しました。
また、社会科のわたくしは、子どもたちに夏休みの課題「『生命を考える本』を作ろう!」を課しました。これは、メインテーマ「生命」に関わることなら何でもOKという総合的研究と、手作りの本を作るという作業をドッキングした、きわめて過激な課題でしたが、子どもたちは一所懸命に取り組んでゆきました。子どもたちは、地球環境の問題や戦争と平和、差別と人権、生き方や死の問題など、実に様々な『生命を考える本』を著しました。それらの作品は、その秋、本校の学芸発表会展示部門に出品されました。
さらに、子どもたちは、自然と生命と人間をテーマにした総合的な学習に触発されてみずから社会的な行動を開始しました。それは、「再生利用のための牛乳パック回収運動」でした。
上級生のあとを引き継ぐ後期生徒会選挙の立ち合い演説会で、立候補した子どもたちは、こぞって公約に「牛乳パック回収運動」を挙げ、見事当選していったのです。1989年当時、牛乳パックの回収率がようやく1%を超えたばかりで、本校の所在する練馬区でもまだ本格的に回収していなかったころのことでした。
子どもたちの生徒会が始めた「再生利用のための牛乳パック回収運動」は、1990年3月11日付け『ねりま区報』813号で取り上げられ、紙上で生徒会長・久岡誉君(当時、中学二年)が、次のような談話を発表しました。
自分で出したゴミは自分で片付けるというのが、この運動で一番大切なことです。その心が自然を守ることにつながると思います。新聞と違い、牛乳パックは回収ルートが確立されていないので、区も協力してくれたらいいなと思います。
こうした自然と生命と人間のつながりをテーマに、教科と学年と生徒会活動との連携で行ってきた相互交流学習・活動の上に、沢内村への旅があったのです。
4 子どもたちの思いと We are the world
生命というものへの価値観
沢内村が私に教えてくれたものは、生命というものへの価値観だと思います。今の社会は、ほとんど『生命より金』という時代です。公害がいい例です。しかし、沢内村は、そんな高度経済成長の中で、数少ない『生命を守る村』として働いていたのです。これは、学習すればするほど感じました。劇団『銅鑼』の『燃える雪』の中で、やぶ医者を返したり、除雪をしていつでも病人を運べるようにしたり、また、住宅環境を改善したり、村の財政が赤字に傾いても、『金より生命』の考えできた深沢村長の姿を見て、これが生命というものに関する本当の対処だと思いました。これこそが本当の政治だと思いました。世の中で一番大切な『生命を守る』ということを、沢内村は私に教えてくれたのです。(聡)
本当の医療行政とは
私は今までに「医療」について考えたことが何度かある。将来、医者か看護婦になりたいと考えているので、シュバイツアーやナイチンゲール、野口英世など、数々の医療関係の人物の伝記も読んだ。私が沢内村の医療行政について考えたとき、今まで読んだ本とは異なり、もっと現実味があって人のあたたかさがあるのを感じた。
沢内村が私の医療行政に対する考え方を変えた。それは、有名な大学を出た医者が大勢いる病院がすばらしいのではなく、大切なのは人と人とのつながり、まさにネットワークだということ。大病にかかった病人を手術して治す医者がすばらしいのではなく、病気にかかる以前に、いつも人々の健康状態を見て予防するのが本当の医療ではないだろうか。
深沢村長はいつも村民の健康状態を保健婦さんに聞いていたという。私は実際に、病気を予防するほうに重点を置いている沢内村へ行き、本当の医療行政というものを学んだ。
病気とは治療して治すのではなく、予防して病気にかからないようにするものだということ。現代の社会においても、この方がずっと良いことに気付くことができたならば、これからの医療行政も変わっていくと思う。(久美子)
リゾート開発問題、是か非か
乳児、老人の死亡率が高いのに苦しめられ、積雪と貧困に悩む無医村を村民と村長が一体となってこれらの問題に取り組みえてきた。地方自治のあり方を考えさせるこの村こそ、沢内村である。今、この沢内村でリゾート開発、つまりゴルフ場やスキー場開発の話が持ちかけられている。過疎化に悩む市町村ではリゾート開発を進めているところも多いと時々ニュースなどで聞くが、これは沢内村にとっていずれにしても大きな影響をもたらすことになる。良い影響は後で述べるとして、悪い影響について考えると、まず、森林破壊がある。ゴルフ場やスキー場を作るには広大な平地を必要とするからだ。そして、芝生などの手入れに使われる農薬の問題。農薬を使えば水が汚染される。その他、騒音問題など、挙げ出したらきりがない。ただ、農薬問題については、できるだけ使用しないように村が細かく制限すればその被害は少なくてすむようである。これに対し良い影響といえば、村に収入が入り村自体が豊かになることや、人の出入りが増え、観光地として村が栄えることが挙げられる。これらのことは過疎化に悩む沢内村にとってはとても重要なことであると思うし、また、村の収入が増えればその分村民の保健医療費に付け足すなど、そのお金を村の福祉に役立てることもできる。確かに森林破壊など問題点はいくつかあるが、前にも書いたように、農薬については村で制限することもできるし、それに、沢内村と同じような市町村がリゾート開発に取り組んでいる例も多いので、我慢してその分リゾート開発によって生まれた良い点を沢内村の行政に十分活かしていけばよいのではないだろうか。
しかし、沢内村の中学生との交流会まで私は沢内村リゾート開発に賛成だった。これに対して沢内村中学生は、みな明らかに反対の考えを持っていた。理由は、リゾート開発が進めば自然が破壊され地下水が汚染され、きれいな水が飲めなくなるなど、村民の生活に直接影響を与えるからだという。確かに生活にある程度影響が出てくるだろう。でも、沢内村に与える良い影響も見逃せないのではないか、と私が質問すると、次のような答えが返ってきた。もし村の収入が増え、沢内村が豊かになったとしても、自然が破壊され村民の生活に影響が出るようでは私達の生活は本当の意味で豊かになれないというのだった。私はこの意見を聞いたとき、同じ中学生でもこれだけ立派な考えを持っているのか……と考えさせられた。自然と戦い、自然共に暮らしてきた沢内村の人々。森林が切り倒され、水が汚染される環境の中ではたとえどんなに収入があろうと、村が栄えようと、結局残るのは自然を破壊された沢内村であって、沢内村の中学生が言っていたように、本当の意味で村民の生活は豊かにならず、沢内村は栄えないのだと思った。大切なのは、深沢・太田両村長が築き上げてきた、沢内村民の一人一人の生活をこれからも守り続けることなのだと思う。この様な考えが、沢内村の人々には自然に身に付いているように私には思えた。目の前だけの問題からリゾート開発に賛成していた私が恥ずかしく、また、この「リゾート開発」という問題の大きさを痛感させられた。沢内村民の生活を守るためにも、今のすばらしい沢内村であり続けるためにも、リゾート開発は行わないで欲しい。(和代)
小さな努力が大きな実を結ぶ
僕らは「生命の村沢内村」で沢内の中学生に出会った。乳児死亡率一位から死亡率ゼロの達成をやってのけたすごい村である。そんな村の中学生との交流会が僕を変えたのであった。彼らの一つにまとまった力には驚かされた。交流中はおとなしかった彼らが、一年、二年、三年と助け合って協力している。何と言っても合唱の一団となっている団結力には例えようもない驚きを感じた。歌わない人は誰一人としていない。大きく口を開け、精一杯歌っているのである。まさにこの団結力だろう。このような団結力で沢内村を生命の村へと変えていったのだろう。僕の心は動揺した。どんなことでも人間が一つになればできるのだ。僕らの牛乳パック回収運動でも、世界中の人すべてが協力していけば資源は助かるはず。どれだけ多くの人々が問題に取り組み、協力するかにかかっている。できるかぎり僕も協力しなければならないんだと再認識させられた。この小さな努力が大きな実を結ぶのだから……。(晋)
何がこの子たちにこう言わせるのか
沢内村立中学校に着き、予定通りに交流会が開始された。「東京についてどう思いますか?リゾート開発問題については?」質問はみなこちらからの一方通行だった。「なんか盛り上がらない」と思いながら、さっきから取っているメモに軽く目を通してみると、話していることの多さに驚いた。そうなのだ。沢内村の人は意志表示がはっきりしているのだ。「嫌いです」「賛成です」特に沢内村に対する考え方がかなりしっかりしていた。みんな「沢内が好きだ」と言っている。私は何だか悔しかった。沢内村の何がこの子たちをこう言わせているのだろうか?私は度々そう疑問を持った。そして今、それは沢内を取り囲む、私が心を洗われたあの自然の木々や太陽そのものであったような気がする。そして沢内の人々を自然が支えているように、人間は自然と常に結び合って生きるべきなのだということを実感させられた。自然と一体になっていきている沢内の人々から私は一種の民族的な自覚のようなものを生で教えられた。(衣塑子)
心のネットワークをもっと大切に
私が沢内村に行って学んだことは、たくさんあります。でも私を変えたのは、この村の団結力からくる、夢を果たすことのできる無限なパワーのようなものなのだろうと思うのです。人と人とが信じ合い、助け合い生きてきて、今日の沢内村があるのだろうと感じました。このすばらしい心と心のネットワークが、今の私達にはあるでしょうか。私は、悔しいけれど、沢内村の人々の方が私達よりも数段この力を持っているように思います。心と心のネットワークをもっと大切にしたい。(花枝)
バカにした気持ちが消えた
私を一番大きく変えたものは、沢内村中学校の生徒の歌でした。それまでの私には、いくら沢内村の歴史がすばらしいものであったとしても、私達が交流する中学生が直接歴史にかかわっているわけじゃないんだから……という、少しバカにしたような気持ちがあったのが事実です。そしてもう一つ付け足すとすれば、私達は十分に準備をしてきたという自信があったということです。(中略)ところが、沢内村中学校の生徒の歌を聞いたとき、私の自信は一気に崩れ落ちたような気がしました。きちんとやらなかったからショックだったわけではないのです。精一杯やったという自信があったからこそ、大きなショックを受けたのだと思います。しかし、ショックを受けたのと同時に、私の考えは大きく変わりました。今までのバカにしたような気持ちは全くなくなり、それどころか、どんなに小さなことでもひとつひとつを大切にして、一人一人が精一杯打ち込めば団結できる。これが沢内の歴史を動かす力となっているのだと思います。私は数分間の歌で、多くのことを学びました。(綾子)
友達観が変わった
交流が私の何を変えたのか。きっと友達観だと思う。友達とは、ただベタベタと仲が良い人を言うのではないだろう。一度だけ偶然に出会った人達でも、心に強く残っていれば、それは友達となる。塾の友達よりも、あの子達の方がはっきりと顔を思い出せるのだから。もう二度と会うこともないだろうが、一生忘れられない気がする。たった一時間で、私は独りよがりな友情を得た。(珠希)
私達が歌った We are the world
バスの中で私は、ひたすら考えていた。沢内中学校の生徒達はどのようなことを考えているだろうか。どんな交流会になるのだろうか。そう考えながらも私には頭の片隅にあるイメージが焼きついていた。『田舎。違う世界』ところが、沢内村に着いたとたん、そんなイメージは揺らぎ始めた。交流会の会場である農業者トレーニングセンターがとても大きく立派だった。中に入ろうとすると、大きな拍手が聞こえてきて、椅子もきちんと整えられてあった。一瞬足がすくんでしまった。少し緊張してきた。交流会が始まった。沢内中学校の校長先生のお話、お互いの学校や地域を紹介するスライド音響構成が終わり、今度は、小グループでの話し合いの時間が来た。沢内中学校の生徒達が一斉に椅子の位置を変え、私達と向かい合った。初めは、進行も遅く、みんな緊張していたが、徐々にテンポが速くなり、質問がどんどん出され、冗談もとぶようになった。和やかな雰囲気になり、私も普通の中学生と話すときと同じにごく自然に話し、沢内村の生活との違いを発見すると同時に、友情が生まれてくるように思えてきた。最後に、合唱による交流の時間がやって来た。まず沢内中の全校生徒の歌を聞いて私は感動してしまった。本当に心が通じ合っているように思えた。そして、私達の番だ。自分がWe are the worldを歌っている時も、今生まれたばかりの友情が伝わるように一生懸命に歌った。(恵里子)
*以上の「子どもたちの思い」は、国語科の石川直美さんが出された課題作文と社会科で課した沢内レポートからの抜粋です。
そして、We are the world
岩手県和賀郡の沢内村で東京からきた本校の中学生が、なぜ、このWe are the worldを合唱したのでしょうか。その歌には、こんな背景や理由がありました。
わたくしたちの中学校には、恵里子さんをはじめ、多くの海外から帰国した子どもたちがいます。ご自身も合唱団の経験を豊富に持つ英語科の上木多加志さんが、その子どもたちを中心とする学年合唱を指導してくれました。当日の指揮も海外から帰国したばかりの正記君が行いました。
また、この歌は、1984年のアフリカの飢餓に対して、アメリカのミュージシャンたちが飢餓救済のために作った音楽です。1984年の末、黒人の歌手であり、プロデューサーであるハリー・ベラフォンテの呼び掛けで始まったアフリカの飢餓救済のための音楽です。クインシー・ジョーンズのプロデュース、ライオネル・リッチーの作曲、スティービー・ワンダー、マイケル・ジャクソン、そして自分で作った点字の歌詞を指で追いながら歌うレイ・チャールズらのソロによる曲とビデオが作られました。
この歌の歌詞に、「いのちのために手を貸す時がきたんだ」「それは自らのいのちを救うことなんだ」とあるように、まさに人間の生命の尊重を歌っています。
また、「大きな家族の一員」「僕らは仲間」という言葉に見られるように、人間の平等の精神をもとに「彼らも力強さと自由を手に入れる」可能性を探り、「明るい明日を作るのは僕らの仕事」「住みよい世界を作るのさ」と人々の幸福を追求しています。しかも、「誰かがどこかで変化を起こさなければ」「変化は必ず起こると確信しよう」と行動の大切さも示しています。
この歌詞をじっくり読み込むと、「飢餓の救済」という作品のきっかけを超えて、あらゆる差別・偏見の克服や環境破壊の阻止の歌などにも聞こえてきます。この歌の中に普遍的な「人間の生命・平等・自由、そして幸福の追求」の意義の深さを知ることができます。
5 わたくしたち教師のその後
十年前のたった一枚の新聞記事をきっかけに行われた沢内村修学旅行でしたが、これは、一個人のひらめきと「自然と生命と人間」という総合的なテーマで結ばれた教科・学年・生徒会とのネットワークがあってこそ実現できた「旅」なのではないでしょうか。
そして、子どもたちは、その「旅」を通して、異なる地域とそこに生きる子どもたちとの様々なつながりとかかわりを創造してゆきました。
この貴重な体験は、子どもたちばかりではなく、わたくしたち教師にも大きな変化・変容をもたらしました。それは、修学旅行が単なる行事の消化のためのものではなく、総合的な学習・活動となる可能性を秘めていることを実感させてくれたことでした。
そして、その後の1993年、沢内村修学旅行とほぼ同じコンセプトで、岩手県下閉伊郡田野畑村への旅を実施しました。この旅では、事後学習・指導にも力を注ぎました。
「練馬区より田野畑村に住むべきである」という論題でディベートを行い、環境と開発、過疎と過密、第1、2次産業と第3次産業、道路や鉄道などの社会資本、文化と情報などの意味を問い質し、田野畑村修学旅行の成果と課題を明らかにしました。
さらに今、わたくしたち教師は、1998年の新潟県佐渡島修学旅行を計画しています。
(『季刊 ホリスティック教育』第4号、日本ホリスティック教育協会編、1997.6)