鎌倉・歴史と文化への旅
―SOUTHERN ALL STARSの「通りゃんせ」に誘われて―
成田喜一郎
01 一の鳥居 通りゃんせ
02
二の鳥居 通りゃんせ
03
三の鳥居 通りゃんせ
*由比ヶ浜からまっすぐに鶴岡八幡宮向かって伸びる若宮大路に建っています。
一番由比ヶ浜よりの鳥居が一の鳥居です。二の鳥居から三の鳥居までは源頼朝が北条政子の安産を祈願して作ったといわれる盛り土と石垣で一段高くなっている道「段葛(だんかずら)」 が続いています。
04 北条はんに参りゃんせ
*頼朝の死後、政子の実家筋に当たる北条氏が執権につき、実権を握っていきます。
源氏は、三代(頼朝・頼家・実朝)で滅び、鎌倉幕府は北条氏の執権政治によって維持されていきました。
北条政子の墓は、鎌倉五山第三位の寿福寺にあります。
また、鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇が建立した宝戒寺は、北条氏の霊を弔うために建立されました。
なお、頼朝の墓は鶴岡八幡宮の東方やく300mのところにあり、頼家の墓は暗殺された伊豆修善寺にあります。
三代将軍・実朝の墓は、政子と同じ寿福寺にあります。
05 一の鳥居 通りゃんせ
06 北条はんに参りゃんせ
07 大町小町 静御前と桜舞う頃
*大町小町は、今もある地名です。
鎌倉駅から鶴岡八幡宮に向かう若宮大路の東側に小町大路があります。
*桑田佳祐さんは、静御前を「しずか」と読ませ歌っていますが、「静か」との掛詞でもありますね。
頼朝と仲違いをした弟の義経の恋人であった静御前の舞には悲しい物語があったようです。
義経が兄頼朝の使わした追っ手に都を追われた際に、義経とともに落ちのびたが、途中で別れたあと、吉野山で母とともに捕らえられ1186年、鎌倉に送られ義経の所在を尋問されました。
口を割らぬ静御前は、政子の希望により鶴岡八幡宮で嫌々ながらにも義経を慕う舞を舞うことになりました。
義経の子を身ごもっていた静御前は子を産みますが、生まれたばかりの子は由比ヶ浜に沈められ殺されたといいます。
08 二の鳥居 通りゃんせ
09 半僧坊に参りゃんせ
*半僧坊は、半僧半俗の姿をしているという建長寺の鎮守・半僧坊大権現をまつる寺で建長寺の裏山にあります。
建長寺は、鎌倉五山第一位の寺です。
ちなみに、二位は北鎌倉にある円覚寺(あの元寇、文永・弘安の役のあと、執権・時宗は戦死者を慰霊するために建立)、三位は寿福寺、四位が浄智寺、五位が浄妙寺で、すべて臨済宗の寺です。
10 大天狗小天狗 若葉や花菖蒲濡る頃
*大天狗小天狗は、半僧坊に続く石段の両側に半僧坊のお供である天狗や烏天狗の像が巻物を持ったり、天をにらんだりして立っています。
なお、花菖蒲が美しく咲く寺がいくつかあります。
紫陽花寺で有名な明月院やかつては縁切り寺・駆け込み寺として有名であった東慶寺の6月は紫陽花と花菖蒲のどちらも楽しめます。
11 三の鳥居 通りゃんせ
12 盂蘭盆会参りゃんせ
*盂蘭盆会(うらぼんえ)とは、陰暦七月一五日を中心に行なわれる仏事です。
祖先の霊を自宅に迎え供物をそなえ、経をあげます。
現在では、13日夜に迎え火をたいて霊を迎えいれ、16日夜に送り火で霊を送ります。
一般的に言う「お盆」のことです。
13 げげげと 白き蓮花咲く頃
*蓮の花は7月中旬〜8月下旬が見ごろです。
歌には白き蓮花とありますが、三の鳥居の先、太鼓橋のかかる源平池は右側が源氏池、左側が平家池と呼ばれています。
昔は源氏池には源氏の旗の色と同じ白、平家池には平家の旗の色と同じ赤の蓮の花が咲き分かれていたとい言われていますが、現在では両池に仲良く紅白の花が咲き乱れます。
余談になりますが、蓮の花にはこんな話があります。
『仏説阿弥陀経』に「池中蓮華/大如車輪/青色青光青陰/黄色黄光黄陰/赤色赤光赤陰/白色白光白陰/雑色雑光雑陰/微妙香潔」という言葉があるそうです。
これは、極楽の池の様子をたとえたものであるとされていますが、池を教室・地域・国家・地球にたとえ、蓮の花を私たち人間にたとえることができます。
まさに、蓮の花にも人間にも色々な花があり、色々な光を放ち また、色々な陰をも抱いています。
しかも、雑色雑光雑陰、鮮やかな色をださない斑な色、斑な輝き、斑な陰がある人間の存在をも示しています。この言葉は、まさに悪平等にとらわれず「善差別(ぜんしゃべつ)」すなわち善なる差異=「差別」の大切さに気がつかせてくれます。
14 戦は七里の磯づたい
*七里ヶ浜は、西の小動崎から東の稲村ヶ崎からまでまっすぐに伸びる全長約3km海岸です。
稲村ヶ崎は、新田義貞がこの岬を越えて鎌倉に攻め入る時、海に宝刀を捧げて龍神に祈ると、潮が引き道が開け、義貞の軍勢は一路鎌倉に攻め入ることができたという伝説の場所です。
実は、鎌倉に屋敷をもつ新田義貞には、鎌倉の地の理・自然を知り尽くしており、潮の満ち引きとその時期に関する知識があったようです。
鎌倉時代の話ではありませんが、七里ヶ浜には明治時代の悲話があります。
1910(明治43)年1月23日、逗子開成中学ボート部の生徒らが鎌倉・七里ヶ浜で、強風にあおられて転覆し、全員溺死しました。少年たちを悼んで「真白き富士の嶺(当時は「根))」という曲が作られました。
鎌倉女学院の教師・三角錫子が、アメリカ人作曲家・ジェレミー・インガルスの賛美歌のメロディに自作の詩をつけたものです。
真白き富士の根 緑の江の島 仰ぎみるも 今は涙
帰らぬ十二の 雄々しきみ魂に 捧げまつる 胸と心
ボートは沈みぬ 千尋の海原 風も波も 小さき腕に
力もつき果て 呼ぶ名は父母 恨みは深し 七里ヶ浜
み雪は咽(むせ)びぬ 風さえ騒ぎて 月も星も 影をひそめ
みたまよ何処に 迷いておわすか 帰れ早く 母の胸に
みそらにかがやく 朝日のみ光り 暗(やみ)にしずむ 親の心
黄金も宝も 何しに集めん 神よ早く 我も召せよ
雲間に昇りし 昨日(きのう)の月影 今は見えぬ 人の姿
悲しさ余りて 寝られぬ枕に 響く波の おとも高し
帰らぬ浪路に 友よぶ千鳥に 我も恋し 失せし人よ
尽きせぬ恨みに 泣くねは共々 今日もあすも 斯くてとわに
斯くてとわに
15 在りし日も蝉しぐれ
16 嗚呼 落ち水流るは太刀洗
*梶原太刀洗水は、旧金沢街道の十二所七曲りのあたり、朝比奈の切通し三郎の滝近くにあります。
梶原景時が反逆の疑いがあった千葉広常を討ち、その血のついた刀を洗ったという湧き水です。
鎌倉五名水のひとつ。
ちなみに残り四名水は、銭洗水(銭洗弁財天)、日蓮乞水(名越切通し近く)、金龍水(もと建長寺門前にあったが道路拡張にため埋没)、甘露水(浄智寺門前)です。
17 亡き人の“思い馳せ涙”と見てとらん
*今は亡き古人に思いを「馳せ」るの「馳せ」と、長谷寺・鎌倉能舞台・大仏の鎮座する高徳院のある地名「長谷」との掛詞かもしれません。
18 一の鳥居 通りゃんせ
19 北条はんに参りゃんせ
20 大町小町 萩見て流鏑馬の頃
*流鏑馬は、授業でも出てきました。
鎌倉の流鏑馬神事は、長さ260mの馬場に並んだ3つの杉板の的を馬に乗った武者が射るというものです。
1187年に源頼朝が始めたとされています。
現在は、鎌倉まつりを締めくくる行事として4月の第3日曜日に、また、鶴岡八幡宮例大祭の最終日9月16日に行なわれています。
ここでは、「萩見て流鏑馬の頃」とあるので、鶴岡八幡宮例大祭で行われる流鏑馬のことです。
21 二の鳥居 通りゃんせ
22 お十夜に参りゃんせ
*お十夜とは、鎌倉六仏教の一つ浄土宗の法要の一つです。
ここ鎌倉では、光明寺十夜会が有名で、毎年10月12〜15日、浄土宗の信徒が全国から集まって夜を徹して御詠歌や念仏を唱える行事となっています。
もともとはその名のとおり10日間続く行事だった ためこの名がきました。
23 化粧坂もみじが朱に染まる頃
*化粧坂と書いて「けわいざか」と読みます。
この坂は、源氏山公園近くにあり、鎌倉七切通しの一つです。
新田軍と北条軍の戦いの舞台でもありました。
名前の由来には、この辺りにかつて遊郭があって化粧をした女が行き来したからとか、秋になると化粧をしたような紅葉が眺められるからとか、戦に敗れた北条高時の討ち取られた首に化粧を施したからなどと諸説があるようです。
ちなみに、切通しとは、山や丘などを切り開いて通した道のことで、自然の要害・鎌倉には有名な切通しが七つあります。
残る六つの切通しは、極楽寺切通し・大仏坂切通し・亀谷坂切通し・巨福呂坂切通し・朝比奈切通し・名越切通し・青蓮寺切通し・釈迦堂切通しです。
地図で探してみましょう。
24 闇夜に篝(かがり)て薪能
*鎌倉薪能(たきぎのう)は、毎年10月に鎌倉宮に設けられた野外舞台で、幻想的なかがり火のもと行われます。
鎌倉宮は明治2年に創建された歴史の新しい神社です。
頼朝の墓の先にあります。そうそう、能・狂言については、中世・室町文化のところで学びましたね。
25 虫の音に囃されて
26 嗚呼 やぐらで月見の六地蔵
*やぐらは、櫓ではなく「やぐら(岩倉・窟)」です。
「いわくら」や「谷倉」の転意とも言います。
鎌倉や室町時代に、山腹に横穴を掘って墓所としたもので、後世貯蔵庫としても用いられました。鎌倉には多く見られます。
最後の執権・北条高時の腹切りやぐらは有名です。
*六地蔵は、今小路と由比ガ浜大通りの交差点に立つお地蔵さまです。
6体のうち5体は 1923(大正12)年9月1日の関東大震災で壊れ、新たに立てられたものです。
この交差 点辺りは、鎌倉時代に飢渇畠という名の刑場があったところで、罪人の霊を弔うためにお地蔵さまが建てらたと言われています。
27 古を“歌にせし雅”と見てとらん
この六地蔵の脇には、松尾芭蕉の句碑「夏草や つわものどもの 夢の跡」があります。
これは、五七五七七の歌ではなく、五七五の句ですが....。
ちなみに、芭蕉の著書『おくの細道』によると、この句は奥州・平泉で作られたものです。
28 三の鳥居 通りゃんせ
29 禅寺へ参りゃんせ
*鎌倉六仏教の中に禅宗は二つ。
臨済宗と曹洞宗でしたね。
栄西の起こした臨済宗は、鎌倉・室町時代の中央・上層の武士たちに好まれていました。
鎌倉時代、1253(建長5)年に建長寺が第一とされ、室町時代に鎌倉五山(建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺・浄妙寺)と京都五山(南禅寺・天竜寺・建仁寺・東福寺・万寿寺)が定められました。
30 名刹古刹 大銀杏に小雪舞う頃
*「刹」とはお寺のことです。
名刹は名高いお寺、古刹は由緒ある古いお寺の意味です。
鎌倉 五山を中心に、多くの寺院があります。
*この大銀杏は、鶴岡八幡宮本宮前の石段の下手にある、樹齢1000年を超えるといわれる高さ30m、幹の周囲7mの大木です。1219年3代将軍源実朝が、この木の陰に隠れていた甥の公暁に刺殺されたと伝えられていることから、別名「隠れ銀杏」とも呼ばれ ています。現在、この大銀杏にはリスが棲みついているようです。
みなさんは、果たしてリスに会えるでしょうか。
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SOUTHERN ALL STARS(サザン)のロック「通りゃんせ」(注)に秘められた歴史と文化、いかがでしたか。
桑田佳祐さんに脱帽! 彼が作詞した「通りゃんせ」の奥の深さに参った参ったって感じです。
みなさんは、あとひと月後の4月に鎌倉遠足、名刹古刹に参りゃんせ参りゃんせですね。
今回は、歴史と現在・私たちとを結ぶ一つの方法としてサザンの「通りゃんせ」を聴き、読んでみました。
教科書や資料集・用語事典などももちろんですが、日常生活の中で意外なところに「歴史」は潜んでいるものです。
「歴史とは何か」という問いの答えを探し続けるためにも、「いったい何が歴史なのか」、「どこに歴史はあるのか」という問いも大切にしてください。
そして、来月、現地・鎌倉に行って鎌倉の歴史や文化と現代に生きるみなさんとがリンクできればいいですね。
素敵な「旅」になることを祈っています。
(注)「通りゃんせ」は、あの名曲「TSUNAMI」(シングルCD,2000年)とのカップリング曲です。
2003年3月18日記
Mr.NARICKこと成田喜一郎
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